所報9月号
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た後、加藤嘉明が定めた八社八幡の一番社とされました。現在の社殿は江戸時代に入り、松山藩主松平定長が将軍から命じられた流鏑馬の必中祈願のお礼として建て替えたものです。大工697人、延べ人数69、017人が関わり、寛文7(1667)年に竣工したといわれています。京都の石清水八幡宮を模したといわれ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない八幡造りの社殿で、国の重要文化財に指定されています。 境内からは、松山城や放生園を一望することができます。松山と訪れた観光客を千年変わらず、今も見守り続けています。 の御手洗川の引水により、捕えた魚を放つための放生池がつくられました。その後、その池は埋め立てられ、道後温泉駅前の放生園になっています。今の放生園は、道後の湯で傷を癒したという白鷺の足跡の残った「鷺石」や、道後温泉本館で使用した湯釜から出る「足湯」、「坊っちゃんカラクリ時計」などがあり、古の歴史を今に伝える、観光客で賑わう場所になっています。 伊佐爾波神社は、現在地に遷され松山・道後に訪れる人々を千年も見守り続ける神社表紙絵を訪ねて~神代の昔をめぐる~第7回「道後 伊佐爾波神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。▲参道の入り口にある放生園 表紙絵の神社をめぐる当コラム、今回は道後の高台にある伊佐爾波神社です。仲哀天皇・神功皇后がご来浴の際の仮宮跡に建てられたといわれています。その場所は、伊佐爾波岡といわれていた、現在の道後公園に鎮座していたとされ、河野氏が湯月城を築城するにあたって、今の場所に遷されたと伝えられ、湯月八幡とも呼ばれていました。その際、境内コラム22

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