所報10月号
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 記念すべき700号の表紙を飾る山は、勝山(城山)です。室町時代までは味酒山と呼ばれており、当時の中心は、道後の湯築城でした。当時の勝山周辺は田園地帯だったようです。 この勝山に目を付けたのが、七本槍の一人である、加藤嘉明です。嘉明は、伊予国正木(松前)城主に封ぜられた後、勝山の城郭建築を計画します。あわせて、新しい城下町をつくるため、湯山川(現石手川)の改修や町の整備を行いました。嘉明は市街の移転を断行し、現在の松山市松前町に正木(松前)の住民を移しました。慶長8年(1603年)、松山という名称が公にされ、新城下町がスタートします。その後、城の工事は二十余に亘って続けられています。その後、まちづくりを積極的に進めた嘉明は会津四十万石に転封となります。嘉明の構想には、堀江から勝山まで溝渠をつくって舟運に供する土木工事の構想もあり、転封にならなければ、今の松山も大きく様変わりしていたかもしれません。 現在、山頂へ行くルートは、ロープウェイやリフトをはじめ複数あります。道中は照明がついているため夜景を楽しむこともできます。また、城山公園は「日本さくら名所100選」の指定を受けるなど、市民や観光客の憩いの場となっています。 現在の松山のまちづくりは、勝山から始まりました。嘉明が発展した今の松山を見ると、どのように感じるでしょうか。第10回「勝山【城山】(132m)」松山のシンボル・・・まちづくりの礎となる山山に登ろうコラム25

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