所報10月号
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初代会頭 小林 信近 翁700号発刊を記念し、当会議所の歴史を紐解きます。松山の発展に大きく貢献した初代会頭「小林 信近 翁」をご紹介します。松山の繁栄を築いた      ふるさとの偉人 小林 信近 翁は、区会議員・議長、県会議員・初代議長、松山市会議員・初代議長、衆議院議員などを歴任したほか、松山商法会議所(現・松山商工会議所)を1882年(明治15)に設立し、初代会頭を務めるなど、明治の松山の政財界を代表する存在として長く活躍しました。実業家としても、銀行、鉄道、電力などの事業を起業・経営し松山の経済・社会の近代化に大きく貢献しました。 松山藩士の中嶋家に生まれた信近翁は、11歳で小林家に養子として迎えられ、藩主松平勝成、定昭の小姓役に取り立てられました。維新後に困窮した旧藩士の授産のための工業会社として、士族の仲間とともに牛行舎を1876年(明治9)に設立し、製靴や織物などの事業を行いました。また、士族が政府から与えられた公債の保全のために第五十二国立銀行(現・伊予銀行)を1878年(明治11)に設立し、初代頭取に就任しました。また、1883年(明治16)には、海南新聞社(現・愛媛新聞社)の社長にも就任しました。明治中期の産業化の時代に入ると、信近翁は近代技術による地域の産業・交通基盤の開発のために様々な会社を興します。なかでも、1887年(明治20)に伊豫鉄道会社を設立し、1888年(明治21)に三津停車場-松山停車場の間で開業した小鉄道事業は、我が国初の民間地方鉄道であり、後に全国各地で作られる軽便鉄道の先駆けとなりました。さらに鉄道会社を母体として、1901年(明治34)に伊豫水力電気(現・四国電力)を設立しました。 次々に、近代技術による公共的開発事業を立案し、その実現のために地域の出資者を組織する役割を果たした信近翁は、企業家精神(アントレプレナーシップ)を発揮した革新的経営者であり、松山の繁栄の礎を築きました。1842186018641866186718701871187318741876187818821883188718901892189619011903190719111915191619188月28日(西暦)、伊豫松平家中中島包隼の第二子として誕生主君松平勝成の小姓として参勤に同行、江戸で嫡子定昭の小姓となる定昭御伴を解かれ松山に戻る。第一次長州征伐に出陣(翌年まで)松山近辺警戒のため出陣、土佐山内家と軍艦借用交渉江戸・昌平黌入学、鳥羽伏見の戦いのために京都に向かう藩制発布により松山藩小参事となり、会計掛兼刑法掛を勤める小林家の家督を相続浅田原桑園を開墾、一番町で陶器製造を始める三番町で芝居小屋設立、湊町で紙店開業士族授産のために牛行社を設立し、製紙・製靴・織物業を経営県会初代議長、第五十二国立銀行(現・伊予銀行)を創設し初代頭取となる◎松山商法会議所を設立し会頭となる海南新聞(現・愛媛新聞)初代社長伊豫鉄道会社(現・伊予鉄道)を創設し社長となる松山市会議員・初代議長、松山市参事会員高浜桟橋会社を設立し頭取となる。有信社を設立し社長となる松山汽船会社を設立し社長となる才賀藤吉と伊豫水力電気(現・四国電力)を設立し専務取締役となる伊豫製紙株式合資会社を設立し代表社員となる伊豫電力織布(株)を設立し社長となる鞍手軽便鉄道(株)を設立し専務取締役となる松山市長より表彰ならびに銀杯の贈与を受ける賞勲局総裁より賞状・銀杯を下賜される死去、常信寺(祝谷)に埋葬01822242528293132343640414548505459616569737476小林 信近 翁年表小林 信近 翁年表江戸明治大正[松山ー三津間の軽便鉄道][信近翁手記]西暦年齢(満)資料:北川淳一郎『小林信近』(非売品、1958年)、大久保利夫『衆議院議員候補者列伝』(1890年)、『松山市史第3巻』(1995年)より作成。注:年齢は誕生日後の満年齢で示した。700号記念4

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