所報9月号
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20コラム『坂の上の雲』のまち松山『坂の上の雲』のまち松山 今回の解説板はJR松山駅前に設置されている「子規の句碑」です。昭和24年、同じ句を刻んだ、今より小さな句碑が、松山駅前に建てられました。その句碑は、市駅前、そして堀之内へと移設されます。現在の句碑は、前の句碑が移された後、昭和37年に建てられたものです。昭和55年の駅前広場改造工事の際に現在の場所へ移されました。 この句は、明治28年、子規が従軍記者として戦地へ赴く前に、先祖の墓参りをするため、松山へ帰省した際に詠んだ句だと言われています。明治28年は、子規にとって人生の転機となる年でもありました。帰省後、日清戦争を取材するため、大連へ渡りますが、従軍できるような健康状態ではなかったため、帰りの船中で喀血し、療養を余儀なくされます。そのため、再度帰松しますが、その時に漱石と再会し、愚陀仏庵での共同生活が始まります。2ヶ月ほどではありましたが、お互いの文学活動へ、大きな影響を与えたと考えられています。秋には、子規の希望で帰京することになり、松山を離れます。途中立ち寄った奈良で詠んだ句が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」です。その後、子規が松山の地を踏むことはありませんでした。 当初、建てられた句碑は、現在、子規記念博物館の南側に移されています。正宗寺にあったという自然石に彫られた句碑のまわりには、子規を供養するかのように、糸瓜が取り囲んでいました。COLUMNコ ラ ム

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