所報10月号
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20コラム『坂の上の雲』のまち松山『坂の上の雲』のまち松山 今回の解説板は、河東静渓住居跡(碧梧桐生誕地)です。千舟町通りの中ほどを、路地裏に入った場所に、跡地を示す標示と解説板が、コンクリートのビルに囲まれて、ひっそりと建っています。 河東碧梧桐の父である静渓は、正岡子規をはじめ、明治の文人に大きな影響を与えた人物です。静渓には六男三女があり、三男である竹村鍛は、子規の松山中学の同窓生です。中学時代、子規と鍛、そして、太田正躬、三並良、森知之の5名が中心となって五友の会と称し、文学活動を行っています。子規と静渓の関わりは、五友の会の面々が、松山中学の秋季大試験で優秀だったため、学校から頼山陽選「謝選拾遺」という漢文を送られたことに端を発します。当時の子規たちは、その漢文の内容がわからなかったため、代々、漢学者の家柄で、千舟学舎を開いていた鍛の父、静渓に教わることとなりました。その折、子規たちは、静渓の指導のもとで、誌会を開きます。その回数は、1年間に100を数えました。明治十四年には、「愛比売新報」に子規の漢詩が掲載されており、子規の作品で活字になった最初のものと言われています。 静渓に手ほどきを受けた、四男、銓(河東可全)も俳句を通じて子規と交流を持ちますが、五男、秉五郎(碧梧桐)は、野球をきっかけに子規と関わり、明治を代表する俳人になりました。明治時代、文学の革新を担った、松山出身の文人たちの原点は、この少年時代の学び舎にあるのかもしれません。COLUMNコ ラ ム

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