所報9月号
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表紙絵を訪ねて表紙絵を訪ねて~松山の八十八ヶ所霊場めぐり~第9回 「畑寺町 第50番札所 繁多寺」松山平野を一望できる場所で見続けた1200年の歴史とは 四国八十八ヶ所のうち、松山には八つの霊場が存在します。ここでは、表紙を彩る香川進先生の絵の舞台となっている、松山の八十八ヶ所霊場と遍路道という風景に秘められた物語をご紹介しています。【「所報」8月号表紙】▲寺院左奥が淡路ヶ峠▲本堂付近から望む松山平野 今回は、畑寺町にある第50番札所、「繁多寺」です。浄土寺のある久米地区から、道後方面へ向かう道すがら、住宅街を抜けた小高い場所に寺院があります。 繁多寺は今から1200年ほど前の奈良時代、天平勝宝年間に行基によって開かれたといわれています。寺院は「光明寺」と呼ばれていましたが、一説では、天皇から数流の旛を賜ったことから「旛多寺」と呼ばれ、今の「繁多寺」になったと伝えられています。この地区の畑寺という地名も寺院の名称を由来とするようです。 寺院の書物を紐解くと、一遍上人の名前が、たびたび出てくるとか。全国を行脚した一遍上人ですが、亡くなる前の年、伊予に帰られて当寺で修行し、浄土三部経を奉納したと記されています。また、徳川四代将軍家綱公の念持仏三体のうちの一つといわれる、大聖歓喜天が祀られています。 寺院からは、松山平野を望むことができます。振り返れば、淡路ヶ峠と呼ばれる山に抱かれていることに気がつきます。寺院のある山の頂には、400年前、河野通有が城主、道後の湯築城の砦がありました。その家臣である林淡路守通起が守っていたことから、「淡路ヶ峠」と呼ばれるようになったそうです。その後、豊臣方の小早川隆景に敗れ、中国地方へ移ったといわれています。その、林淡路守通起の子孫は、初代の総理大臣になった伊藤博文です。明治42年、伊藤博文が道後温泉に来た際の講演録には「当国は即ち先祖の故郷なり・・・」という発言が記されています。記念碑を建立しようという動きもありましたが、翌年、伊藤博文はハルピンで暗殺されます。 当地も、歴史の糸が複雑に絡み合う、お遍路道のようです。コラム22

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