所報4月号
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維新後、現在の社名になりました。 また、朝日八幡神社の東南には、数奇な人生を送った山内与右衛門を祀る山内神社があります。土佐の山内容堂との縁があり、松山藩に仕えたものの、功績がありながら、非業の死を遂げた人物です。その後、忠臣として見直され、当地に祀られました。山内神社は今年で200年を迎え、4月26日にはお祭りが行われるとか。この機会に、山内氏の人生と江戸時代の松山の歴史に触れてみてください。 いわれています。当時、松山も荏胡麻の産地であり、荏原(恵原町)という地名はその名残だとか。朝日八幡神社も油加工・販売の裁可権をもっていたと伝えられています。 1603年、松山藩の初代藩主、加藤嘉明が城周辺の八社八幡を勝山城(松山城)の守護神として選び、山崎八幡をその六番社として崇敬しました。その後、藩主が勝山城から社殿を眺めた際に屋根が朝日を受けて輝いているのを見て、社名を朝日にとの奨めがあった経緯から、紐解けば 松山の歴史を  現代に伝える二つの社表紙絵を訪ねて〜神代の昔をめぐる〜第3回「南江戸 朝日八幡神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。▲朝日八幡神社から眺める松山平野 表紙絵とともに、松山の神社をめぐる本コラム、今回は松山市を一望できる南江戸の高台に鎮座する朝日八幡神社です。 持統天皇(687〜696)の時代に足煩地主神をご祭神として創建され、沼戸明神と呼ばれました。当時の鎮座地は「沼台」とされていますが、その場所は諸説あるようです。その後、現在の京都山崎にある離宮八幡宮から八幡の神をお迎えし、山崎八幡宮と改称します。離宮八幡宮は、平安時代の頃、荏胡麻の実から灯油の油を搾る道具を発明。これが、日本における製油の発祥と▲創建200年を迎える山内神社コラム22

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