所報8月号
24/28

川の上に架けられていたものです。道真公を当地から追い立てる勅使を住民がこの橋の上で迎えたとされています。「名残惜し今出る」と道真公が言われたのか、住民が「菅公は港を今出ず」と報告したことからか、現在の松山市西垣生町付近を「今出(いまず)」と呼ぶようになりました。当時は洗地川も狭い小川だったようです。勅使橋は、昭和62年の河川改修工事によりこの地に移され、原形のまま永久保存されることとなりました。 この言い伝えからすれば、諸説ある熟田津の場所は、重信川の河口付近だったのかと、古の時代に思いを馳せることができました。 道真公は大宰府に向かうこととなりました。その後、長保元年(999年)一条天皇が社殿を建立し、道真公を祀って、履脱天満宮と称したそうです。一度、社殿は失われますが、江戸時代になって松山藩主松平家により再建されます。代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬い、幕や提灯に至るまで奉納したと伝えられています。 境内には、勅使橋の原石が保存されています。履脱天満宮より海側へ数キロ、洗地菅原道真公の足跡を残す 数千年の歴史を伝える社表紙絵を訪ねて~神代の昔をめぐる~第6回「久保田町 履脱天満神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。▲勅使を迎えたとされる橋 今号のコラムは、松山空港の近く、久保田町にある履脱天満神社です。田畑が広がる中、松の並木の奥にその社があります。祭神は菅原道真公です。道真公が大宰府に左遷された時に、海が時化たことから、越智郡桜井浜(現在の今治市)に船を寄せ、松山に3年間靴を脱いで逗留したといわれています。追い立ての官人が中央からやってきたため、くつぬぎコラム22

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です