所報10月号
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造り酒屋で、その酒造のかたわら、松山藩の町方大年寄として町政に尽力しました。俳句に関しては、38歳の時に、当時の全国諸芸の達人を示した書「名人異類鑑」に記されるほどでした。栗田樗堂が俳句を研究したといわれる二畳庵は、当時、阿沼美神社の境内にあったとされ、小林一茶も二度この地を訪れ、句を詠んだとされています。栗田樗堂は、庚申庵を建て、風雅の生活を楽しんだとされており、その庵は戦火を免れ、県指定の史跡として、神社の近くにあります。 境内には、他の句碑も建立されており、当時、阿沼美神社が文化の発信地であったことを現代へ伝えています。されています。1602年、加藤嘉明が松前から勝山へ築城した際に、現在地の味酒町に移遷し、味酒神社とも呼ばれていました。藩政時代は、松平定行ほか歴代藩主の厚い崇敬を受け、1650年には社殿が再建されましたが、太平洋戦争の松山大空襲の際に消失しました。現在の社殿は、戦後に建てられたものです。 「浮雲やまた降雪の少しつゝ」 境内にある碑に刻まれた、栗田樗堂の句です。栗田樗堂は、近世伊予第一の俳人といわれた人物です。栗田家は松山きっての古の時代 勝山にあった神社が発信する文化の歴史表紙絵を訪ねて~神代の昔をめぐる~第8回「味酒3丁目 阿沼美神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。 今号のコラムは味酒町にある、延喜式内名神大社としてこの地方の総鎮守であり、それぞれの時代の統治者の崇敬を受けた阿沼美神社です。社伝によれば、久米氏がこの地方を領するにあたり、勝山に祖神を降臨したもので、664年、伊予の国司越智守興の創建ともいわれています。当時、社殿は現在の松山城地にあったと栗田樗堂の句碑コラム22

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