所報11月号
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(ウブズナガミ)だったことから、子規の足跡が残る神社です。コラム冒頭の句は雄郡神社を詠んだ句として、句碑が境内に建てられています。その隣には、  御所柿に 小栗祭の 用意かなと刻まれた句碑もあります。これは、明治28年10月7日、今出(現在の西垣生町)の霽月を人力車で訪れる途中、子規が雄郡神社で詠んだ句です。今も賑わう雄郡神社の地方祭、10月7日に子規もお祭りを見たのでしょうか。の戦の際、東軍の加藤嘉明に応じて守衛の武家が地方戦に参加したことから、西軍により放火され、社殿・宝物・古文書は焼失してしまいます。その後、1693年、藩主の寄進により現在の社殿が建てられました。久松家は、本コラムでも紹介した、道後の伊佐爾波神社、味酒の阿沼美神社、そして、雄郡神社を藩の三社と崇めました。社名は901年編纂の国史に雄郡神(おぐりのかみ)とあり、八所八幡に定められた時からは、正八幡宮と称していましたが、明治35年より、雄郡神社にあらためました。また、本年、中拝殿屋根他の改修を行い、社殿の装いも新たになりました。 雄郡神社は、正岡子規の産土神うぶすなに幟立てたり稲の花           子規表紙絵を訪ねて~神代の昔をめぐる~第9回「小栗3丁目 雄郡神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。 今号の表紙は、小栗3丁目にある雄郡神社です。北は堀之内、東は大街道1丁目から柳井町、南は土居田町、西は生石町から針田町に及ぶ地域の産土神(ウブスナガミ・土地神様)、氏神(ウジガミ・先祖神様)です。かつては、雄郡神社の境内は現在地より西方に大鳥居があり、大木が生い茂り、広壮な社殿を構えていました。慶長年間、関ヶ原正岡子規の句碑コラム22

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