所報10月号
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同遺跡から出土したなすび文様の土器大陸から日本へ… 稲作から古の歴史を   現代に伝える遺跡 表紙絵の遺跡を紹介する本コラム、今回は、松山北部に位置する大渕遺跡です。松山市立北中学校の建設の際に発見されたもので、昭和62年7月より発掘調査が行われました。 弥生時代は、大陸から朝鮮半島を経て、日本列島に水稲耕作の技術が伝わったことに始まるものですが、縄文時代の末期には北部九州に伝来した稲作が西日本の各地で行われていました。大渕遺跡も縄文時代の終わりに水稲耕作が始まった地域であり、松山平野における稲作発祥の地と考えられています。大渕遺跡からは、縄文時代晩期の土器や石器とともに、稲や稲穂を摘むために使われていた磨製石庖丁など稲作と直接関連する道具が出土しました。加えて、モミ痕が付いた土器片や、縄文時す。このことから、稲作などの文化の伝播経路は朝鮮半島から九州北部、そして九州東部を経由して松山にたどり着いたものと推測できます。大渕遺跡は松山平野で初めて稲作が行われただけでなく、当時の大陸文化の伝播経路や文化の変容課程を知り得る糸口として、日本の古代史を語るうえでも重要な遺跡となっています。 松山で稲作が始まり約三千年が経過した今も、大渕遺跡の一帯には水田が広がり、今の時期には、青々とした稲穂が黄金色に色づきはじめています。代晩期の土層からはイネの特徴を有する細胞化石も見つかっており、縄文時代に稲作が行われていたことを裏付ける証拠が多数発見されています。 また、大渕遺跡からは当時の朝鮮半島で作られた土器とよく似た、なすび文様の壺や九州東部地域で発掘されたものと同じ特徴を有する土器も出土していま古代からの手紙第10回「太山寺大渕遺跡」コラム21

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