所報11月号
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発見時の記録の控え(波賀部神社蔵) 本コラムの制作については、松山市考古館の学芸員である梅木氏に監修をいただきました。最後の取材を行った日は、松山市考古館が味酒小学校にて出前講座として、土器の製作に取り組んでいました。土をこねて、クラス単位で窯をつくり、古の製法で焼き入れを行っており、児童たちは、完成の時を心待ちにしていました。考古館ではこのような出前講座を小学校などで年間約100回開催しており、取材時の講座が記念すべき1000回を迎えていました。古の遺物は、保存しなければ風化し、次の時代に伝えていくことはできません。歴史や文化の伝承に携る考古館をぜひ一度訪れてみてください。   松山市考古館 梅木 謙一 氏神代の昔から 古代を今に伝える  社に守られた古墳 今号が最終回となる本コラム、今回は、高井町にある波賀部神社古墳です。この古墳は、全長が62mで、松山平野に現存する前方後円墳の中では最大級となります。こうした王塚古墳は、通常、地名などが付けられていますが、この古墳は同地に建立された神社の名称で呼ばれています。波賀部神社は、伊予水軍の祖といわれた越智玉純が728年に大三島より勧請して建立したられる須恵器がありました。現在、この須恵器は、東京国立博物館に保存されています。また、戦時中には、古墳の近辺に陸軍の飛行場があったとされ、飛行機を格納するための掩体壕がつくられた際には、円筒埴輪も出土しています。 波賀部神社には、出土遺物や発掘及び出土品の輸送等に費やした経費を請求した記録が残されています。しかしながら、出土物に対する届出が整備されていなかったことから、出土物は散逸しています。そのため、出土状況などを記した記録は、この古墳を検証する上で、貴重な情報源となっているのです。 波賀部神社古墳は松山の古代史を現代に伝える場所として、昭和40年11月8日に松山市の史跡に指定されました。神仏とともに古代から近代の歴史を今に伝える重要な古墳となっています。もので、祭神の寛王命は、嵯峨天皇の皇子であり、伊予国守として当地に赴任し、亡くなったとされています。この寛王命の墓地が近くにあったことから、墓辺神社と呼ばれていましたが、「墓」という字を嫌って、今の波賀部神社に改められました。 明治14年、神名石を建立するため、境内にて石材の採集が行われた際に、横穴式石室の一部が発見されました。この石室については「幅壱間四方」という記録が残されていることから、2m前後の正方形であったと想定されています。石室内部からは、多くの遺物が出土していますが、この中には古墳時代後期となる5世紀末から6世紀初頭に作られたと考え古代からの手紙第11回「 高井町 波賀部神社古墳 」コラム21

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