所報8月号
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 今回のコラムは、松山市の中心地を流れる中の川です。河川法に準じた「川」ではなく、石手川から農業用に引かれた「水路」となっています。中の川は、南江戸にある松山市中央浄化センター付近で宮前川となり、海へと流れています。 この中の川は、古くから、城下町への物流の要として活用されていました。街中に「湊町」の地名があるのは、その名残となっています。三津浜から、中の川を通って湊町に物資が運ばれていましたが、水路のため、舟が通るには少し狭い形状であることから、舟に荷物を積んで陸から人が引いて運んでいました。 また、中の川沿いには、正岡子規が2歳から17歳までの少年期を過ごした住居がありました。現在、その場所には、我が国最初の子規の歌碑が建立されており、「くれなゐの 梅散るなへに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ」という歌が刻まれています。また、「子規母堂令妹住居跡」の石碑も設置されています。この住居には、子規が東京から帰省した際に、夏目漱石が訪れています。 今年は、子規、漱石生誕150周年を迎え、市内では記念イベントも開催されています。子規と漱石は、松山で同居するなど、親交を深めました。二人の偉人が見た川の流れは、姿は変われど、明治の文化と歴史を今の松山に伝えています。第8回「柳井町~湊町 中の川」子規と漱石が親交を深めた松山の中心を流れる川子規と漱石が親交を深めた松山の中心を流れる川コラム24

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