所報6月号
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 今回は奧平信昌。なぜこの人かというと、前回取り上げた本多正純と因縁があるからだ。というのは、宇都宮の地を巡る問題。彼の長男である家昌は父とは別に宇都宮10万石の殿様になっていた。ところが彼は30代で亡くなり後を継いだ忠昌は幼かった。そのため、奥羽諸藩を押さえるための要地・宇都宮は荷が重いと判断され、下総古河に移された。そして、宇都宮に入って来たのが本多正純だった。 さあ、これが気にくわないのが、忠昌の祖母である盛徳院。何で忠昌が宇都宮を離れなくてはならぬのか、というわけ。これもみな正純が悪い。彼女は剃髪前は亀姫といい、徳川家康の長女だった。それで弟の2代将軍秀忠に圧力をかけ、正純の失脚を実現させ、忠昌は晴れて宇都宮藩主に復帰した……。真偽の程は不明だが、そういう話がある。そして、盛徳院の夫が奧平信昌である。 信昌は奥三河の作手(つくで)の有力領主・奥平定能の長男。奥平氏はずっと徳川に付くか、武田に付くか悩んでいた。そこに武田信玄の死があり、これを機に家康に従属しようとなった。激怒した信玄の後継者である勝頼は大軍で奧平の本城、長篠城に攻め寄せた。奧平信昌は家臣とともに必死に防戦し、その頑張りが長篠の戦いにつながり、織田・徳川の大勝利を呼び込んだ。喜んだ家康は、長女の亀姫を信昌に嫁がせたのだ。 この後、信昌は家康に仕えて各地を転戦。家康が関東に入ると、上野国小幡3万石を与えられた。関ヶ原の戦いの後には京都所司代となって、京都の治安維持に貢献した。 慶長6(1601)年3月、関ヶ原の戦いに関する一連の功として、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。加納は信長の居城であった岐阜に代わる城であるから、家康の信昌への信頼が見てとれる。慶長20(1615)年に病没した。  信昌の妻は主君である家康の娘。こういう場合、さすがに側室を置くことはできなかったらしい。二人の間の子どもたちは、みな家康の外孫として、幕府から大切に遇された。嫡流は幕末には九州の中津10万石の藩主で、家臣から福沢諭吉が出たといわれる。第十三回言の 「家康の勝利を呼び込んだ奧平信昌」ののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力ことばのちからネガティブな情報が多い時期だからこそ、ポジティブに振ること。前向きに生きる。【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/【公式サイト】     https://www.souun.net/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。たけだそううん東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム22武田 双雲経営コラム

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