所報7月号
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 表紙絵にまつわる伝説を、地域のレジェンドとともに巡る本コラム。今回は、道後の義安寺に伝わる「おろくぶさま」の物語です。 義安寺は、河野氏一族の菩提寺として知られています。1932年の放火により、資料のほとんどが焼失したそうですが、口伝として残っているものがあり、そのひとつが、「おろくぶさま」です。1805年ごろ、今の鳥取県に、友平という豪農がいました。友平は妻を早くに亡くし、一人娘のおしげも難病にかかります。友平はあちこちから薬を取り寄せて養生させましたが、効き目はありませんでした。友平は財産をすべて売り払い、娘を連れて六十六部さんになりました。六十六部さんというのは、法華経を納めるために、全国にある六十六か国の霊場をまわって歩く巡礼のことです。六十六部の旅を終えた親娘でしたが、病状は良くなりません。そこで、道後温泉の近くにあった義安寺に泊まり、湯治に励みました。友平は義安寺の和尚に勧められて四国遍路に出かけますが、その帰りを待たず、おしげは亡くなってしまいました。お遍路から帰ってきた友平は、娘の死を知り、世の無常と、業の深さというものを思い知らされ、「子安観音」と「延命地蔵」を安置し、寺の掃除やお墓守りなど、奉仕を尽くしました。友平は「石塔に六部姿を彫り出してください。私は今までの行力によって、一心に願われる方には、その望みが叶えられるよう励みます。」と遺言を残し亡くなりました。以降、「おろくぶさま」に、多くの方が訪れるようになりました。 現在の和尚の足立光顕さんは、「神や仏ではなく、『ひと』が地域信仰として大事にされていることは珍しく、今でも地元や県外から多くの人がお参りに来ている」と話します。病気の娘への父親の思いは、おろくぶさまとなり、現在も、人の願いを聞き届けています。現代に語り継がれる娘を思う父の心 19コラム第7回「松山市道後・義安寺『おろくぶさま』」

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