所報8月号
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言のののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力 ここまで德川家康の家臣を取り上げてきたけれど、あまりマイナーな人物はどうか?と考えて、今回からは関ヶ原で家康と関わりを持った武将を取り上げてみようと思う。まずは佐竹義宣。 佐竹家は秋田の大名家として江戸時代を過ごした。「河内源氏=武士の棟梁」という図式を完成させたのは源頼朝の4代前、八幡太郎義家であるが、その義家の弟である新羅三郎義光の子孫が佐竹家で、同族に武田家がある。明治維新を大名として迎えた武家として、佐竹家は最も古いのではないだろうか。 さて、名門の第19代当主、佐竹義宣(1570〜1633)は、鎌倉時代から佐竹家の本拠地であった常陸太田に生まれた。10代後半で家督を受け継ぎ、1590年には小田原攻めに出陣してきた豊臣秀吉に謁見(えっけん)。秀吉の家臣となって、常陸の本領を安堵された。ただ、この頃の佐竹家は常陸の武士たちに対して強力な支配権を確立できていなかった。義宣は天下人・秀吉の威光をもって支配権を強化し、真の意味で常陸国を統一した。また、本拠を常陸北部の太田から、中央の水戸に移した。当時の石高は54万石といわれる。 秀吉の没後、関ヶ原の戦いが起きる。義宣は石田三成と懇意で、三成は文書で「常陸の義宣が攻撃するので、家康は江戸をなかなか動けないはず」と述べている。一方、父の義重は家康の勝利と見ていて、少数だが兵を徳川秀忠の下に味方として送っている。だが義宣は去就を明瞭にしなかった。それで結局、佐竹家は本領である常陸を奪われ、秋田に国替えになった。石高は半分以下の20万石。お家の存続と喜べばいいのか、左遷と悲しむべきか。難しいところである。 秋田に移った義宣は有能な家臣を抜てきし、農政に励んだ。そのため、秋田藩は実高40万石に上ったという。また、国替えに際して、常陸中の美女を秋田に連れて行き、それが秋田美人のもとになったともいう。まあ、これは信用に足らないが。第十五回「関ヶ原で徳川家康と関わった武将①佐竹義宣」ことばのちから不安なことが全部なくなるまで安心しないのではなく、まず安心からはじめること。 マインドフルネス。東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム18【公式ホームページ】  https://www.souun.net/【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家たけだそううん1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。武田 双雲経営コラム

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