所報8月号
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石とともに現代に伝わる先人の見倣うべき姿 表紙絵にまつわる伝説を、地域のレジェンドとともに巡る本コラム。今回は、松山市保免西の日招八幡神社です。この神社は、平城天皇に仕えた藤原雄友が天然痘を患った際に祈願し、平癒したことから、伊予痘瘡神社として崇敬されていました。1184年、源頼朝が守護として送った佐々木高綱が、伊予国に入国する際の戦で、日没が迫る中、この神社に祈願し、扇で入日を招くと日が差昇り勝利したことから、日招八幡神社と呼ばれています。 こうした歴史を有する、日招八幡神社の本殿の傍に、丸に二の字の刻がある大きな石が祀られています。宮司の玉井さんによると、この石は、明治の頃、伊予郡余土村の開発の際に掘り起こされ、この神社に祀られたもので、石にまつわる言い伝えが残っています。この石は、慶長6年頃に伊予松山藩主・加藤嘉明が、今の松前町にあった正木城から、松山城に移る際に運ばれていたものです。今でも松山城の石垣には、同じ刻のある石が見られるそうです。この石を運んでいたのが、「おたた」と呼ばれる、魚を入れた桶を頭の上に乗せて売り歩いていた女性たちでした。おたたさんは、毎日、頭に重い石を乗せ、正木から石を運んでいましたが、丸の中に二の刻のある石はひと際大きく、誰も運ぼうとしませんでした。そうした中で、お豊というおたたさんが、周りが止めるのも聞かず、その石を運び始めました。しかし、松前から松山に入った出合付近で足元がふらつき始め、日招八幡神社のところで亡くなってしまいました。そのお豊が運んでいた石を祀っているそうです。 地元の中学校では、毎朝有志の生徒が玄関の清掃を行う「おとよ運動」と呼ばれる活動を行っています。嫌なことを率先してやるというお豊の姿は、石とともに、現在の子どもたちに受け継がれているようです。19コラム第8回「松山市保免西日招八幡神社『お豊石』」

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