所報11月号
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 今回は幕府に命じられて名古屋城の建設工事に当たっているとき、以前扱った池田輝政にぶつくさ文句を言ったとされる福島正則を取り上げたい。彼は「江戸城や(家康が居住する)駿府城はまだしも、ここは(家康の)側室の子の城ではないか。そんなものにまでこき使われては堪らない」と不満を口にし、池田に「お前は(家康の)婿殿だろう。この事を訴え、何とかしろ」と迫った。するとそれを聞いていた加藤清正が「めったなことを言うな。築城が嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ」とたしなめたという。 こんな調子で福島正則というと、武将としては勇猛かつ有能であるが、おっちょこちょい、短絡的というイメージが強い。けれど、本当かなあ、と私は以前から疑問に思っている。秀吉子飼いの大名として、「文」では石田三成と増田長盛、「武」では加藤清正と福島正則、それに小西行長と浅野幸長。このあたりが20万石ほどの領地を与えられた出世頭である。さらにというと、京都に近い佐和山の石田、大和郡山の増田、秀吉の故郷である清洲を領する福島が代表ということになろう。 秀吉の人事基準は少し変わっている。戦場の槍(やり)働きだけでは出世させないのだ。事務仕事、デスクワークができない者は領地経営の才能なしと見られ、せいぜい3万石どまり(福島と同じく「賤ケ岳の七本槍」に数えられた脇坂安治などが好例)。となると、福島をただの暴れ者とするのは、後世の創作ではないのか。 そうした目で見直すと、福島は朝鮮出兵では補給部隊として活躍している。関ヶ原の戦いの際も、関ヶ原で果敢に戦ったのみならず、黒田長政とともに大坂城にいた毛利輝元と交渉し、毛利を退去させた上で、見事に城の接収に成功している。西軍の総帥の座にあった毛利が西軍残党とともに大坂城に籠城していたら、豊臣秀頼を担ぐ形になっただけに、徳川方は一苦労も二苦労もしただろう。その意味で福島の功績は大きかったし、だからこそ毛利の居城であった広島城と、ほぼ50万石という広大な領地を得たのだ。 福島はずっと秀頼こそを主人だと思っていた、と説く研究者もいる。だが、それなら大坂の陣で、なぜ彼は沈黙したのか。やはり福島は政治的配慮が十分にできる人物で、自らの福島家を繁栄させることが第一の目的であった。そのために秀吉の死後、積極的に家康に近づいたのだ、と解釈すべきだろう。第十八回「関ヶ原の戦いで徳川家康と関わった武将③福島正則」ことばのちからありがたいという言葉を癖のように頭の中でつぶやきながら過ごしています。言のののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力たけだそううん【公式ホームページ】  https://www.souun.net/【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム18武田 双雲経営コラム

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