所報2月号
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 江戸時代初めの女性なら、この人!という痛快な人物がいる。それが加賀百万石、前田利常の母、寿福院ことおちょぼさんだ。彼女は元亀元(1570)年に越前の戦国大名・朝倉家の下級武士の家に生まれ、幼くして前田利家の正室・まつの侍女となった。後ろ盾がないのに、まつに気に入られていたようだから、才覚の優れた娘だったに違いない。 豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、前田利家は渡海基地である肥前・名護屋に赴き、長期間滞在した。まつは利家の身の回りの世話をおちょぼに託したが、彼女は利家の夜のお世話もして、前田家の四男となる利常を生んだ。 当時、城に務める女性は、(1)殿の愛を受ける↓(2)正式な側室と認められる↓(3)子どもを産む↓(4)その子が世継ぎとなる、という順序((2)と(3)は逆である場合もある)で身分がぐんぐん上昇した。正室のまつは11人も子どもを産みながら成人した男子は2人しかいなかった。しかも前田を継いだ利長には子がなかった(梅毒のせいという)ため、おちょぼが生んだ利常に白羽の矢が立った。利常は兄の利長の養子となり、前田家を継ぐことになった。おちょぼさんは(4)まで出世。とんでもなくラッキーだった。 前田家の重臣たちは利家が軽輩の頃からの家臣である。糟糠の妻のおまつには世話になっている。だから、みなが「おまつ派」である。しかもおちょぼさんは元々おまつさんの侍女。つまり家来。だから自分の子が後継者になっても、彼女には身を慎み、おとなしく生きる道もあった。また、当時の女性の多く戚((おい)か)の重臣・太田長知を、腹心の横の選択はそうであったと思う。 だが、おちょぼさんは違った。新藩主の生母として、それは派手に振る舞ったのだ。彼女は日蓮宗の熱心な信者で、妙成寺という壮大な寺院を建てた(寺伝では創立でなく中興、とする)。うだつの上がらぬ兄を住職として送り込んだ。かつての主人、おまつさんにも一歩も引かず、廊下で会っても頭一つ下げなかったという。 実は江戸初期、前田家は親・豊臣派と親・徳川派の対立を抱えていた。昔からの家臣たちは親・豊臣派で、おまつさんはそのシンボルであった。だが、まつの息子である利長は、徳川に擦り寄るほか前田の生き延びる道はない、と認識していた。だから豊臣に心を寄せる、おまつ所生のもう一人の男子、利政に家督を譲るわけにいかなかったし、おまつの縁山長知に金沢城内で斬らせている。そして利常は徳川秀忠の二女・珠姫の婿であり、親・徳川派のシンボルだった。 世はいや応なく豊臣から徳川へと移行する。こうした動きに乗って自在に振る舞ったのがおちょぼさんで、彼女はしっかりと金沢城内の権力闘争を観察していたに違いない。したたかで、むしろ爽快な女性である。まあ、息子の利常は実母の奔放な振る舞いに頭を痛めただろうけれども。利常が実権を掌握すると人質として江戸に赴くも、上流の女性たちと日蓮宗グループをつくるなど、楽しくやっていたようだ。寛永8(1631)年、加賀藩江戸屋敷で死去している。 第十九回「前田家のおちょぼ」ことばのちから新たな気持ちで、一から出直す覚悟で進もう。言のののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力【公式ホームページ】  https://www.souun.net/【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家たけだそううん1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム18武田 双雲経営コラム

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